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斎藤の<国語の頭脳>教室
文学「作品」には、無限の情報がありえなくてはならない。
そうでなければ、単なる解説書になってしまう。
つまり、ある場所からある場所(他の場所)へ移動するための観光ガイド・マップで終わってしまう。
無限の情報があるということは、その「作品」に無限の「意味」があるということになる。
その「作品」に、先程言いました、「無限の情報を見出す言葉」があり、「中学受験にある、大意を書きなさい!」と言うことは、おかしいと思う。
その「作品」を「単一化」することでは決してないはずである。
そのことによって、「意味」を我々が読書すること、読むと言う行為で、「無限な情報」を見出すことはできない。
そもそも、国語教育の基本に反しているところである。
その「無限な情報」ということは、「作品」に現在生きている「世界」を見出すということである。
「意味」を「単一化」する「作業」が、「国語の頭脳」を養うとは思えない。
常に「複数コンテクスト」があり続けなければならない。
そのことによって、「作品」は「開かれた」ものとなる。
「作品」が、我々を「救済」してはくれないだろうが、例えば、「生きる勇気」などを「作品」から享受すると言うことはできるであろう。
ここらが、中学受験の国語を指導していて、非常に自己矛盾に陥り、国語教育とは?と考えさせられるところである。しかし、ゆとりある内部進学といっても、試験に通らなくては合格は勝ち得ることはできない。
合格を勝ち得たからと言って、国語の能力を十分に養えたかと言えば別問題である。あくまでも、合格する国語であるからだ。
理想は、作文、小論文、そして、面接が一番であると思う。
作文で、その生徒様の言語要素から表現能力、考え方の過程など、手に取るように分かるからである。
残念なことに、このデジタル時代に作文の添削をうまくできる講師がいないというのが現状ではなかろうか。
juken_saito@cure.ocn.ne.jp
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