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斎藤の<国語の頭脳>教室


<国語>ができない理由(わけ!)

 国語ができなくて困っているという人が数多くいらっしゃいます。

 なぜでしょうか。

 国語は日本語であり母国語です。わたしたちは、日本で生まれ育った限り、日本語に囲まれ、日頃から日本語でしゃべり、聞き、読み、書いてきたわけです、

 認知科学で、フランスの精神分析学者・ピアジェが「人の言語の獲得と空間の理解」について研究しました。

 それくらい、ことば、この場合、日本語ですが興味深いものなのです。

 わたしたちは、「言語空間」の中で生きているといってもいいくらいです。

 多くのことば(語彙)、言い回し、表現の仕方を知っている人は、それだけ今生きている世界が広くなり、「言語空間」が豊かになっていると言えるでしょう。

 しかし、そんなことについて考えたり、研究しても国語の成績は上がりません。

 わたしは、小学校に上がる前に世界文学全集を読み切っていました。よくおしゃべりをし、新聞を読むたびに無数に分からないことばがでてくるので、そのたびに両親に聞き、多忙な両親を困らせた記憶があります。

 そんなわたしが、小学校で国語の成績が良かったか?と言えば、よくありませんでした。普通かそれ以下でした。作文を教師に何度も何度も書き直しをされ泣いた覚えさえあります。つらかったです。よく読書をし図鑑を読み、家でも文章を書くことが好きだったのに、学校の国語はどうか?と言えば全くそのことが反映されないのです。

 なぜ?その解答が分かり始めたのは、大学受験を迎えた頃でした。

 国語には、ひとつの「ルール」があるということを初めて理解したからです。

 受験の国語においては、常に「作者」そして「本文」が何が言いたいのかが大切であり、わたしの考え、わたし独自の考え(オリジナリティ!)などどうでもいいのです。常に問われているのは、出題された問題文を書いた「作者」がどう思い、どう考えているか!問題文中の主人公の気持ちは、本文の流れからするとどう考えられるか!ということなのです。

 250字程度で説明しなさいとか、その理由を書きなさい!という設問があっても、自分のオリジナルを書いては不正解になるのです。ここが非常に矛盾するところです。国語は、生徒、一人、一人の独自の発想・考え、固有な世界を大切にするものではないのでしょうか?そうでなければ、作家、哲学者、詩人、芸術家は生まれず、平均化、画一化された考えの人間だけ生まれてしまいます。言い換えれば、そういう人間だけを作り上げる作業をしているといっても過言ではありません。

 独自の発想を展開するには、今の社会、大人になって社会に出てからではだめなようです。もし、社会に出ても、きっと所属する会社の方針、社のモチーフと別なアイディアをもっていたら、その人のオリジナリティはどんなにすばらしいものであっても、排除され、企画案から外され、評価を受けることができないことが、よくあり得るのが日本社会の特質ではないでしょうか。

 こう考えて来ますと、国語も非常に大人の社会の影響を受けて出来上がっています。

 受験の国語何て言ったらなおさらそうでしょう。

 では、なぜ?そのようなことが起きるのでしょうか?そのような行為をするのでしょうか。

 わたしたち人間は、同じ社会で生きています。みな、平和に仲良く、安全に暮らしたいがためでしょう。それには、道徳といった基本的な価値観を共有することが必要です。ヒトラーのユダヤ人殺害のような指導者を作らないためでもあるのです。少し、その例は大袈裟すぎるかもしれませんが・・・・・

 受験の国語のルールは、算数、数学のような「ひとつの手筋・手段」にのっとって解法し、常に自己の考え、主張、気持ちを書くのではなく、本文中の文脈に従い、作者の考え通りに解けば良いのです!さらに、こういう考え方が普通だよな、常識だよな、ということにのっとって解答すれば必ず正解になります。

 結局、みなさん、あれこれ思案を巡らし考え過ぎてしまうのです。

 それで、受験の国語が不可解なものと見えてしまうと思います。



            juken_saito@cure.ocn.ne.jp
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